ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

京都市長選、市民のホンネ

来年2月投票の京都市長選は結局、自民、公明、民主の3党相乗り体制が継続しそうです。先の大阪市長選が自公VS民となって盛り上がりをみせたのと対照的でしょう。
共産党市政の復活を許さないためにも、京都での3党相乗り体制は必要だ、と与党関係者は主張しています。一方で「国政では自民と民主がしのぎを削っているのに、地方では手を結ぶのはおかしい。市民の選択肢を狭めることになる」との意見も聞かれます。単純に「3党相乗りじゃ面白くないじゃないか」といった野次馬的な声もあるでしょう。
でも、考えてみれば、自民と民主がそれぞれ独自候補を出さなければ、選択肢が広がらないというのはちょっと違うのではないかと感じます。選挙って誰が出てもいいんですから。
たとえば、市民が勝手連を組織して無党派候補を担ぎ出すことも可能なはずです。かつての大阪府や宮崎県の例もあるとおり、知名度のあるタレントを引っ張り出す作戦もあるでしょう。
なら、どうしてそういう動きが京都ではとぼしいのか。
ひとつには、突出した行動をする人間を許容しない京都の市民性があると思います。京都の人は、そういう人間に対して冷ややかな視線を送るだけです。したがって、そもそも名乗りを上げにくいし、立候補しても広範な支援を得て当選にこぎつける公算が低いのです。
こういう市民性をよくわかっているから、擁立する側(ここでは勝手連的なものとします)も「どうせ無駄だ」と考えて積極的に動こうとしません。逆に既存政党(共産党を除く)にしてみたら、無党派的な勢力が出てくるわけはないとタカをくくっているわけで、オール与党体制でみんながいい目をしたらいいやとなるのではないでしょうか。
もともと京都市民は選挙に対して冷めた感覚を持っているような気がします。面白がったり、熱をこめたりしない。仮にタレント候補が出たとしても、お隣の大阪府の先例で学習しているわけですし、面白がって投票する人は少ないのではないでしょうか。そういう意味では民度が高いのかもしれません。逆に言えば、京都でタレント候補が当選するようなら、京都の市民性も変わったな、ということになるといえましょう。
もうちょっと言えば、そもそも市民の中には「市政はまあこんなものでいいんじゃないか」といったあきらめも含めた現状肯定的な雰囲気が少なからずあるような気がします。変革(共産党市政待望論だけを必ずしも指すわけではありません)への志向に乏しいと言っていいのではないでしょうか。