ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

狡猾です、朝日新聞

一般に、裁判の判決を新聞の社説のテーマとして扱う場合、まず読者として知りたいのはその判決が妥当か否かでしょう。ただし、刑事裁判では、遺族の意向を無視できないという点があり、評価をしにくいケースがあります。行政裁判のように行政対住民の構図で一方的に行政を非難するという手法が使えないのです。その点、論説委員の筆先テクニックが問われるわけです。
そういう観点から、朝日、日経、読売3社の合同サイトである「あらたにす」で、光市殺人死刑判決に関する各社社説を読み比べてみました。
この中で、私が注目したのは朝日新聞の社説です。
判決に対する評価の部分が見当たりません。「この犯行のおぞましさや残虐さを見れば、死刑はやむをえないと思う人も少なくないだろう」と遠まわしに言うだけです。
今回の判決が、朝日の社論と合わないからではないかとなんとなく想像できます。かといって遺族感情や世論動向を考えた場合に不当だとは書きにくい。よって直接の評価を控えたのではないでしょうか。裏返していえば、最高裁から差し戻された時点で、死刑以外は考えにくかったが、もし死刑以外の判決が出ていたら妥当と書いたのではないでしょうか。見方を変えれば、社論とは合わないから直接の評価は差し控えるが、判決をある程度は容認するという姿勢をぎりぎりのところでにおわせているといえるのかもしれません。どちらにせよ、なかなか狡猾です。
その点、読売の社説は「今回は、被害者が2人の事件で死刑が適用された。被害者数だけが重要な要素ではなく、事件内容や犯行後の情状などが考慮されるのは、当然だろう」と明快です。ただ、死刑以外だった場合に不当判決と書けただろうか、との疑問は残りますが。
「読者の数は全国の新聞社の論説委員の数しかない」などと揶揄される新聞の社説ですが、社論の顔であることは間違いありません。そういう意味では、社内のいろいろな層(とくに偉いさん)を満足させなくてはならず、社内での利害調整はなかなかたいへんなはずです。社説はある意味、国会答弁のようなものかもしれません。