ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

競馬・F1・競泳

私は身内に水着メーカーの関係者もいないですし、日本国民のひとりとして五輪という大舞台で日本選手が活躍するとすれば、それはそれでとてもうれしいことなのですが。
たとえば競馬の場合、競争(競走)における優劣の要素は馬と騎手にわかれます。自動車レースのF1もおなじように、車体とドライバーにわけることができるでしょう。
では競泳はどうなのか。競技者(人間)が要素のすべてだったと思っていたら、そうではないとだんだんわかってきました。スピード社の水着を着用したら日本新記録連発で、世界新記録まで出てしまったというわけです。こうなると、上の2例に従っていえば、人間と水着に要素をわけることができるといってよさそうです。
競馬、F1、競泳の3例を挙げて考えてみると、それぞれの2つの要素は人間とそれ以外にわけることができます。競技の主体はどれかといった点において、この3例では微妙に違うと思いますが、それはいったんおいておくとして、人間とそれ以外との関係性という点についていえば、ある共通性があるとわかります。それは、契約関係にあるということです。馬を所有する馬主(もしくは厩舎?)と騎手や、車体を製造しているF1チームとドライバーとの関係です。契約という以上、お金が介在しているわけであり、一定のルールに則っています。
たとえば、F1レースで考えてみましょう。とても好調なドライバーがいたとして、別のチームが「ぜひうちのチームにきてほしい」としてシーズン途中に引き抜きにかかるような事態は一般にあるでしょうか。そしてドライバーも現在所属するチームを辞めてすぐ移籍しようとするでしょうか。もしくは、ある騎手が重賞レースの直前になって「どうしてもあの馬に乗りたい」と言い出すような事態は考えられるでしょうか。
ふつうは考えられません。でも、それが今回、水泳の世界では行われようとしています。
選手の声や世論の流れではスピード社の水着の着用を進める方向になっています。もし日本水連が認めなければ、五輪で惨敗した場合に責任論が浮上するでしょうし、その批判は現在契約している国内メーカーにも及ぶでしょう。だから、しょせんは契約なのですから、それを解除して違約金を払えばいいといった考えもあるかもしれません。
ただ、私が多少違和感があるのは、スポーツビジネスの舞台において、本番まで2カ月というこの時期にこういった転換がありなのかどうなのかという点です。契約という概念が軽んじられているのではないか。スピード社以外を採用している他国の選手、水連でも日本と同じような動きになっているんでしょうか。疑問です。
今回のことで水泳にとって水着は単なる道具ではないということがはっきりしました。もっとも、だからこそ、メーカーが開発競争にしのぎを削ってきたわけですし、メーカーと契約した選手らも開発に協力してきたのだと思います。商業主義に対する是非はあるでしょうが、五輪はメーカーの開発競争の発表の舞台となっているのも現実です。五輪はスポーツマーケティング、スポーツビジネスの巨大な装置なのであって、競馬やF1と同じように競泳選手もその成員だといえます。
ブログ上での意見では「全選手が同じメーカーの水着を着用して同じコンディションで競技すればいい」との声もあります。私はむしろF1のように水着メーカーにコンストラクターズタイトルを設けたらどうかと思うんですが、どうでしょうか。