ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

書く側のリテラシー

リテラシーという言葉をよく見聞きするようになりました。読み書き能力という意味らしいです。
ネットの世界ではこれまでどちらかというと読む方のリテラシーが重要視されてきたような気がします。学校でもそういった教育がされていると聞きますし。
ただ、ネットは閲覧するばかりではありません。これだけブログをやる人が増えてくると、書く方のリテラシーも今後、重要になるのではないかと思います。
そう考えたのは、最近の「はてな村」の騒動などを想起しての話なのですが、それがなにかということを具体的に書いてしまえば騒ぎに巻き込まれるだけだからここでは触れません。そもそもこんな雲をつかむような書き方では、私が想起しているようなトピックで検索してもこのページは出てこないでしょうけど。
「読み」のリテラシーは本やネットのページをたくさん読んでいれば自然と身につくような気がします。それに対して「書き」のほうはどうでしょか。「書く」という行為が「読む」に対して能動的な分、リテラシーについての学習もより能動的にしなくてはいけない気がします。そういう意識が、たとえばブログを書いている人たちに果たしてどれだけあるのでしょうか。
私が考える「書き」のリテラシーは、以下のようなことです。自分の考えを的確に表現する、他人を不快にさせないよう注意する、表現活動をしていく上で社会的な約束事に通じる、などです。
また、「書き」のリテラシーに関連しては、以下の2点を述べておきたいと思います。
ひとつは、書くことに対してのリテラシー能力が必要なのかどうかわからない大部分のブロガーにそういったリテラシー能力の必要性を痛感させることが重要だということです。そういう意味で「炎上」は場合によっては一種の必要悪なのではないかとすら思います。まあ、炎上したブログの筆者がかならずリテラシー能力が低いかというと違うような気がしますが。
もう1点は「書き」のリテラシーを高める仕組みができないかということです。ちょっと前にはネット市民新聞が市民記者に対してそういう指導をすればいいという意見もあったように思います。初心者ブロガー対象のネット添削なんかダメかなあ。「ブログZ会」とかビジネスにならないかなとも思いますが。
こんなとりとめのないことを書いていると、「お前も『書き』のリテラシーが低いじゃん」とツッコミがありそうなので、この辺で。