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「違和感」発言に違和感 ミシュラン続報

前にも書きましたミシュラン京都版の続報です。過去エントリーはこちらです。
「けったくそ」だけでは ミシュラン調査
レストランガイドのミシュランの京都・大阪版が刊行されることになり、刊行関係者が京都市長を訪れてPRしました。

レストランの格付け本「ミシュランガイド」の京都・大阪版の発刊決定を受け、日本ミシュラン社の社長ら3人が7日、京都市役所を訪れ、門川大作市長と会談した。発刊決定が京の料理界に波紋を広げるなか、門川市長は「客観的評価は歴史ある店には違和感がある」と話した。
フランスのミシュラン社は2007年にアジア初の東京版を発刊し、第二弾として京都・大阪版を10月に発刊する。京都には老舗が多いため「正当に評価できるのか」といった不安の声も料理界から上がっている。
門川市長は「京都の食文化には独自の価値観があり、客観的評価に違和感があることは事実」と述べつつも、「外部からの刺激で京都の食文化を発展させたい」と強調した。
ベルナール・デルマス社長らは「京都を知りたい外国人観光客や地元の人に愛されるガイドブックを目指したい」と話した。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009040700185&genre=I1&area=K00
門川市長の「客観的評価は歴史ある店には違和感がある」というのが私はよくわかりません。違和感がある発言です。
フランスのタイヤ会社が作っているガイドブックがなんでこれだけ有名になり、その評価が「格付け」などといわれているかというと、その評価の的確性が万人から評価され、信頼されているからにほかならないでしょう。そのミシュランが京都を取り上げるというのでしたら、それを利用して京都の価値を高めるようにしたらいいだけのことではないかと思います。
京都はパリと友好都市関係にありますが、そもそも門川氏もパリを訪れた際にはミシュランを使ってレストランを探すのではないかと思います。利用者にとって便利なのだったらそれでいいのではないでしょうか。
というか、門川氏のいう「違和感」とは、以下のようなところに深層があるのではないかと私は見立てています。門川氏自身も言っている「京都の食文化には独自の価値観があり」というのがポイントです。
この「独自の価値観」というのは、誰にとっての「独自」なのか。それは、京都の料理界のインナーサークルにとっての話ではないかと考えます。
京都の各界には旧来の格式、序列といったものが存在します。その基準は多くの場合は歴史とか伝統とかいったものです。昔からあるものは概して有力だということです。
これはおそらく料理界も例外でないと思います。では序列や格式はどういうことに関係してくるのでしょうか。
それは、ズバリ商売です。格式の高い料理店は官公庁や大企業の接待に使われることも多いでしょう。安定した収益が見込めるということです。
そこにミシュランが入ってきたらどうなるでしょうか。味やサービスといった万人にわかりやすい尺度で評価したら、序列や格式が高かった料理店が低い評価になったり、伝統のない店が高い得点を得たりする可能性があります。これまでの序列、格式が崩れてしまいます。下剋上もあるでしょう。業界は大混乱です。
こういった混乱は絶対避けなければならない。あたりまえです。既得権益を守れない店も出てくるからです。
だから京都の料理界からすれば「自分たちの仲間内で一定の秩序をつくってよろしくやっているのに、手を突っ込んでくるなよ」といったところではないかと思います。
もうひとついえば、序列、格式を強調することによって京都自体が日本で力を保ってきたという歴史があります。茶道、華道、宗教みんなそうです。序列、格式とか歴史、伝統というのは京都の力の源泉なのです。
長い年月かけて築きあげてきたものをミシュランなんかのためにつぶされてはかなわない。門川氏の物言いは京都人らしく遠まわしでよくわからないかもしれませんが、「違和感」の本意はこういったところにあるような気がします。