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脱力と諦観でつづるおっさんの日常

オーマイニュース考

オーマイニュースが9月から模様替えするようです。

市民記者による報道をうたい文句にしてきたインターネット新聞「オーマイニュース」が、8月いっぱいでニュースサイトとしての看板を下ろすことになった。2000年代に入ってネット上に次々と登場した市民メディアだが、ブログとの競合などもあり、ビジネスとして軌道に乗せるには道のりは遠いようだ。
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9月からは、運営会社は現行のサイトに代わって新サイト「オー!マイライフ」を開設。市民記者による投稿の仕組みは残すが、中心は、企業とのタイアップも視野に入れた新商品やサービスの体験報告などに移す。

その理由について、平野日出木編集長は「広告収入の伸び悩みを解消するための方針転換」と説明する。閲覧数などは明かしていないが、平野編集長は「自分の意見をニュースと誤解している人も多かった。事実を書くトレーニングの仕組みを作る必要があったが、うまくいかなかった」と話した。(読売新聞

新聞など既存マスコミの対立軸として受けとめられていたオーマイニュースですが、商業的に成り立たないとニュース発信もなにもないというのは既存マスコミと同じでしょう。これはひとつおさえておきたい点だと思います。「なぜ失敗したのか」の分析は私の手には余りますので、いまさらながらという感じはしますが、こういったネット新聞に関する考え方の枠組みをあらためて愚考してみます。

「ネット」と「市民記者」

あたりまえですが、まずツールとしてはインターネットを使っていることがあります。ビジネスモデルとしては課金するか広告をとるかということになりましょう。オーマイニュースは後者を選びましたが、編集長もいっているとおり「広告収入の伸び悩み」という結果になりました。

広告収入をあげるためにはページビューをあげる必要がありました。そのためには魅力あるコンテンツ発信しなくてはいけないわけです。この点も既存マスコミとは同じ構造をもつといっていいでしょう。

では、どうすれば魅力あるコンテンツを生み出すことができるのか。それはニュースの生産者である編集者や記者の力量にかかっています。オーマイニュースでは記者は市民が務めています。読売の記事で編集長はこのあたりに原因があると言及しています。「自分の意見をニュースと誤解している人も多かった」というのは、ありていにいって「自分が書きたいことと読者が読みたいことは違う、ということを記者がわかっていない」ということだと思います。「事実を書くトレーニングの仕組みを作る必要があった」というのは、裏返していうなら、発信するニュースがかならずしも商品としてのクオリティーを備えていなかったということではないでしょうか。

個別論なのか一般論なのか

前出の読売新聞は記事の後半で同様のネット新聞についてもその運営のむつかしさに触れています。今回オーマイニュースはこういう結果になりましたが、これはたまたまオーマイニュースのやりかたがうまくなかったということなのか、それともネット新聞や市民記者の仕組みがそもそもうまくいかないのか、どっちなのかなあ、と考えてしまいます。もしやりかたがよくなかったのだとしたら、どう改善したらいいのか。私はよくわかりません。

ただ、前述しましたが▽商業的に成り立つことが必要▽そのためには魅力あるコンテンツを発信することが必要――というのは、既存マスコミもネット新聞も同じなんじゃないかなあと思います。

オーマイニュースは本家の韓国で華々しい成果をあげて日本に乗り込んできました。出発時の売り出し方も関係しているかとおもいますが、既存マスコミは古くてダメ、ネット市民新聞は新しくて素晴らしい、みたいなところである種の人たちの間で期待インフレ状態になってしまい、その分、実情との落差に苦しんでいる、といったようなこともあるんじゃないでしょうか。これはあくまで私の感触です。

ネット新聞は、新聞と違って速報性があり、テレビニュースのように放送時間数の枠があるわけでないなど可能性があります。市民記者も数だけなら既存マスコミを圧倒するでしょう。

以下は若干の私見です。オーマイニュースの編集長がいっているような記者教育も大切ですが、今後は編集者(デスク)の役割が重要になってくるのではないでしょうか。新聞のように最終商品をだすだけでなく、たとえばデスクと記者のやりとりなどニュースができていく過程も含めて発信していけばおもしろいかもしれません。

以下は参考にした記事です。
J-CASTニュース : オーマイニュース大方向転換 広告取りやすい「商品やサービス体験記」中心にオーマイニュース、全社員に解雇通告 「ニュース」の看板降ろす MyNewsJapan