ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

「一見さんお断り」考

前のエントリー(「けったくそ」だけでは ミシュラン調査)を書いたあとに同様の話題を扱っているブログやソーシャルブックマークをみてみました。

ミシュランの調査を京都の名店が拒否することについて「よく言った(やった)」との声が多かったように思います。それとともに、京都の飲食店を語るうえで切り離せない「一見さんお断り」を是認する意見が多いとの印象を持ちました。

「一見さんお断り」を貫き通す理屈は店側にはそれなりにありましょう。ここではそれには触れません。

反対に、客側からみたらこの制度はどう映るかを考えてみました。客が一見さんなら当然、店には入れず、悔しい思いをすることになるでしょう。もしくは、常連の知り合いに店に連れて行ってもらうしかないでしょう。一方、すでに常連だったらどうか。知らない客が店に来ることはないから居心地はいいでしょう。「自分は一見さんお断りの店で常連なんだ」というある種の優越感も持てるかもしれません。

ブログなどの中の意見では「どっちみち自分には縁のない高級店なんだから、一見さんお断りでも自分はかまわない」という声もありました。また「本来、一見さんお断りは京都に限らずどこでもある話だ。注目されるのは『一見さんお断り』という言葉が持っているイメージ」という意見もありました。

これらの意見を総合してみると、世の中の人が京都の店に対して抱くイメージというのがなんとなく浮かび上がってくるような気がします。

ひとつは「京都の名店など自分にはあんまり関係ないことだ」と考えているのではないかということ。要するに他人事に近いと考えている人がいくらかいるということです。

もうひとつは「一見さんお断りが京都で行われているのは仕方ないことだ」ということ。他の地方ならともかく、一見さんお断りをやってるのが京都の店だったら認めざるを得ない、という認識です。

このことから私は2つのことを思い浮かべました。

商売をやっている以上、店側からすれば自分が提供しているサービスが広く知れ渡って多くの人に喜んでもらえるということが望ましいはずです。商売上の損得ももちろんあるでしょうが、京料理の素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいと多くの店が思っているのは間違いないはずです。

しかし、ここで「一見さんお断り」が出てくるわけです。このイメージが必要以上に増幅されると、観光客からすれば「面倒だから京料理はパス」となってしまうのではないでしょうか。イメージが障壁になってしまうわけです。仮に京料理に興味があったとしても近寄りがたくなってしまうのではないでしょうか。

もう一点は、前述の裏返しになるかもしれませんが、なんとなくステータスが高かったり、神秘的なイメージを醸し出していることです。これは明らかにプラスの面といえます。京都の外の人が勝手に思っていてくれているわけであり、これをうまく商売に利用しない手はないと思います(まあ、すでに十分利用されているともいえますが)。

前述の2点は矛盾するような考えです。「一見さんお断り」はサービスの在り方としてはあまり普遍的ではないかもしれませんが、京都の地においてはそれなりの合理性と説得力をもっています。その是非については私は言及できません。

当たり前ですが、京都の店のイメージは京都そのものとダブって考えられています。「一見さんお断り」は京都の店だけのことではなく、京都そのものにかかわってくる話です(京都のあらゆる店が「一見さんお断り」というわけではありませんが)。「一見さんお断り」をどうとらえるかは、京都の観光戦略、都市戦略を考える上で重要なヒントとなるような気がします。