ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

1面の人

亡くなったことが新聞の1面に出る人ってすごいよなあ、と単純に思う。元西鉄の大投手・稲尾和久さんの死に接してだ。

そもそも亡くなったことが新聞に出るというのは、よほどの有名人でなければありえない。本来、社会面に出るだけでも十分すごい。

それが1面なのだ。稲尾さんだと、通算276勝という記録もあるだろう。「神様、仏様、稲尾様」の有名なキャッチフレーズだってすぐ頭に浮かぶ。

でも、本当にすごいのは、その偉業ゆえ、彼が活躍した時代をそれぞれ個人が振り返って「自分はそのころどうしていたかなあ」と思い出させる力を持っているということだ。稲尾さんでいえば昭和30年代あたりだろう。その時代を体現している、ということだと思う。だから1面にでるのだ。

同じような人で思い浮かぶのは、ひばりさんや裕次郎さんだ。2人ともフルネームで言わなくてもわかる。それほど、ある時代を象徴し、その存在を国民に共有されているということだろう。

その際、思うのは、時代のピリオドはやはり元号でないとやはりさまにならないということだ。西暦ではいまいちピンとこないような気がする。このあたりは今後、人々の意識もうつろっていくのかもしれないが。

加えて、30年後、40年後、仮に新聞が残っていたとして、昭和という時代区分を考えた場合、1面に出る人がいるとしたら誰かなあ、と考えてみる。筆者が中学のころに結婚、引退した女性歌手あたりかなあ。平成なら、メジャーで活躍するバッターかな。正直、あまり思い浮かばない。それに比べ、近々で稲尾さんに続く人はと考えると、何人も思い浮かぶ(不謹慎なので名前は出しませんが)。

この差はなんなのだろう。おそらく人々の興味が拡散、細分化して、共通の話題にのぼる人が出にくくなっているのではないか。ヒーロー、ヒロインが出にくくなっている。彼ら、彼女らをつくり上げるような情報の大量発信が成立しにくくなっているわけで、見方を変えれば、マスコミの影響力の低下のひとつの側面ともいえるのかもしれない。

「マス」が成立しにくくなり、結果、新聞の1面に死亡が出るような人物は少なくなり、ひいてはそれを載せる新聞そのものもどうなってるかわからないという。なんか夢のない話だなあ。