ぼちぼち そこそこ

脱力と諦観でつづるおっさんの日常

軽ナンバー

ちょっと腑に落ちないことがあります。

自動車のナンバープレートは普通車だと白地に緑字、軽だと黄地に黒字ですね。普通と軽を区別する必要があるからまあそうなっているんだろうといままで思っていました。

それがそうでもなくなっているらしいです。

来年の東京五輪の記念プレートなんかは軽自動車も白地に緑字です。このナンバーの軽はよくみるとすでにけっこう走ってます。

そういうナンバーを付けている人のひとりに聴いてみたところ「黄地はかっこわるいので白地に変えた」との返答がありました。ついでにいうと、この人は有料道路で係員から普通車の料金を要求され、「車両を見たら軽だとわかるだろ」と憤慨したとのことです。

実はわたしも軽に乗っていますが、ナンバーは黄地のままです。加えて言えば、前述の軽オーナーの憤慨が理解できません。

普通と軽を識別する必要があるからナンバーの色が別になっているのに、それを普通と同じ色にしておいて「なんでわからないんだ」と憤慨する神経がわたしは理解できないのです。

そもそも五輪ナンバーが普通と軽で同じ白地になっているというのも行政として悪手だと思います。

黄地がかっこわるいのなら青地とかでもいいじゃないかと思います。とりあえず識別できるよう白地以外にするべきだったでしょう。

考えるに、黄地のナンバーをかっこわるいと思う軽オーナーの心理というのは、黄色とか特定の色が気に入らないのではなく、普通車と違う色のナンバーを付けさせられていることにあるのではないかと思います。

だから、仮に普通車が黄地で軽が白地だったら、そういったオーナーは今度は「白地はかっこわるい」と言い出すのではないかと思慮します。

わたしは正直、クルマのことに関心がないからどうでもいいです。今後も黄地ナンバーを付け続けます。他方、白地にこだわる軽オーナーの心理というのは「まあ好きにしたらいいんじゃないか」と言った感じです。

でも本来、普通と軽を識別するためにナンバープレートの色を違えているわけで、それを普通と同じ色を選択しておいて、料金所の係員に「これは普通車じゃないだろ」と食ってかかるというのはちょっと解せない神経だと感じます。

テレビとラジオ

テレビをあんまり見なくなって久しいです。その間はもっぱらラジオだったのですが、最近、住環境が少し変わって、朝の時間帯にテレビを見ることがあります。

テレビはラジオに比べて情報が多いです。ラジオは音だけですが、テレビは映像もありますから。

最近、テレビを見ていて思うのは、テレビは伝えようとする情報量が多すぎて見てるほうからするとなんか疲れてしまうんです。

朝の情報番組を見ていてもアナウンサーのナレーションにBGMが被さるし、映像もスタジオを映すだけでなく、コメンテーターのワイプや天気・気温などのテロップが出ます。

それぞれ必要な情報だと考えて制作側は用意してるのでしょう。それは理解しますが、なんで疲れるのかというと、単に情報量が多いだけでなく、自分にとって不必要な情報まで入ってくるからではないかと思います。

それに比べてラジオは伝えようとする情報の内容がすうーっと入ってくるような気がします。

私は主にNHK第一を聴きますが、テレビに比べてラジオは音だけです。伝達手段が音しかないから、テレビのようになにもかも盛り込まず、逆に情報をそぎ落としていって、ナレーション一本で伝えようとします。BGMなんか入れようものなら、いちばん伝えたいナレーションを邪魔してしまうことになってしまいます。

そのあたりがテレビとラジオの差のような気がしています。

たまにテレビも音声を消して画面だけ流していることがあります。そのほうがストレスがないような気がします。

もうひとついうと、NHKのニュースもテレビだと変にバラエティー化してきたのが気になります。その点、ラジオは時間制限もあるのかもしれませんが、ストレートニュースやその解説だけを取り扱っていて密度が濃いように思います。

ニュースに限ればNHKのラジオを聴いていれば十分という感じがしてます。

固定資産税

自宅周辺を含めて先祖伝来の土地が多少あります。

田舎は田舎なんですが、いちおう市街化区域にかかっているため、固定資産税や都市計画税がそれなりにかかります。

土地は立派な資産です。一昔前なら土地を持っていれば「資産家」と呼ばれました。右肩上がりの時代なら将来の値上がりを見越すことも意味があったでしょう。

でも今後は人口減少の時代です。土地は増えたり減ったりしませんが、人口が減るということは、土地を必要とする人間が減るということを意味するわけで、土地の需要が今後減っていくことは明らかです。当然、地価は下落していくでしょう。

ということは、これから土地を保有していくというのはかなりリスキーなことなのではないかと考えます。有効利用できて税金を上回る利益が見込めるのならいいですが、今後、地価が下がっていくどころか、売りたいと思ったときにはもう需要がなくなって、売れないという事態にならないともかぎりません。

当然、国内の不動産業は厳しくなっていくでしょう。

「土地持ち」というと資産家の代名詞みたいな響きも一時はありましたが、今後は土地持ち貧乏てなことになりかねないのでは。

戦後の農地解放は半ば強制的に政策として行われました。それから70数年、放っておいても解放が進むといった事態になりかねなくなってきました。

これからすこし脱線します。

土地の次は金融資産も保有税がかかるようになるのではないでしょうか。現在でも金利には課税されますが、一歩進めてお金も土地と同じように持ってるだけで税金がかかるようになるのではないかと思います。

グーグル先生初体験

グーグルドキュメントの音声入力を初めて本格的に使ってみました。

詳細については「グーグルドキュメント 音声入力」とか「グーグルドキュメント テープ起こし」などでぐぐってみてください。

インタビューの音源を聞きながら聞いたことをパソコンに話していくとグーグルドキュメントが文字起こしをしてくれます。

いやあ、すごい時代になったなと。使ってみて気づいたことを備忘録として書いておきます。

1 聞いたことをそのまま文字起こしするのは非効率。

インタビューだと相手は考えながら話します。その話し言葉をそのまま文字起こししても文章としてつながりが悪かったり、重複が多かったりします。なので、聞いたことをある程度、頭の中で整った文章に直して吹き込んだほうが効率的なのではないでしょうか。

2 その場で直す。

文字起こしの精度はかなりのものですが、やっぱりそこは機械がやることなので限界があります。間違いも出てきます。もしかしたら吹き込む側の滑舌の悪さも影響しているのかもしれませんが。そういったときはレコーダーを止めて、その場で文章を修正していったほうがいいです。再生をとめるのは一見めんどうなことのように思えますが、あとあとのことを考えるとそのほうが効率的だと思います。

3 文章を区切る。

あたりまえですが、起こした文章に句読点はつきません。なので、自分で付ける必要があります。改行でもいいし、ブランクでもいいけど、文章と文章の間の区切りがはっきりしているほうが分かりやすいですよね。

要するに、他人が見てわかるような完全な文章に仕上げる必要はないとしても、自分があとで見返してみて最低限誤解が生じないようにしておいたほうが便利だということです。

今後、グーグル先生の精度も上がっていくでしょうし、これは便利なものができたな、との印象です。

 

 

天才バカボン

こんど自宅を改築することになり、掃除をしていたら懐かしい本が出てきました。

漫画「天才バカボン」の単行本です。

いまからおよそ半世紀前、うちは特別に教育熱心というわけでもなかったですが、普段あんまり漫画本を買ってもらうことはありませんでした。

ただし、漫画本を買ってもらえる特別な機会がありました。私は体が弱く、とくに耳やのどの医者によくかかっていました。風邪もよくひいていたと思います。

医者に受診する際は子どもですから母親が付き添ってくれます。医院の待合室は畳敷きで、みんなが正座して順番を待ちます。

子どもですから受診をおとなしく待つという行為が非常に苦痛でした。母親もさすがに間がもたないと思ったのでしょうか。こういう時に「漫画本を買って」とせがむと、近くの本屋に買いに行ってくれたのです。

読み出すと夢中になるから、それ以降はおとなしくしていたんだと思います。

そんな母親も80代になり、わたしが介護する立場になっています。人間は年をとるとだんだん子どもに戻っていくとよくいいますが、わたしの漫画を持ち出すまでもなく、子どもは好きなことに没頭していればおとなしいというか、間がもちます。

それに対して老人はもう関心のあることがなくなってしまうような気がします。体力や気力も関係しているのでしょうか、うちの母親もよく「もう何も考えられない」といった意味のことを口走ります。当然、本人にはなんの罪もないのでしょうけど、そばにいてなんだかちょっとやるせないです。

子どもが漫画に夢中になるのと同じような関心事を老人も持てるといいのかもしれません。

寝ているときの夢の話です。

寝ているときに見る夢はだいたいパターンが決まっていて、深層心理の投影か昔の体験のフラッシュバックかのどちらかです。

よくみる夢のひとつに、高いところに登ってしまい、難儀しながら降りるというのがあります。降りられなくて途中に目が覚め、「夢でよかった」と胸をなでおろす時もあります。

だいたい、とんでもない建物の上とかに登ってしまって、降りる手段がなく、手足を使ってなんとか降りるというパターンが多いです。

まあ、自分が高所恐怖症というのも影響しているのかもしれません。

こういった夢を見る原因は自分でもはっきりよくわかっています。幼稚園くらいのときの体験が大きいのです。

友達とお寺で遊んでいて、木造の門の上にのぼったのはいいが、大人の背丈以上の高さのところで降りられなくなってしまい、お寺の大人におろしてもらったことがあるんです。半世紀くらいたった今でもよくおぼえています。

そのときの体験が(わるい意味で)鮮烈だったんでしょうね。いいおっさんになってからも同じような夢を見続けているわけです。

大人になると、木登りとか、自分の手足を使って高いところにのぼることはまあほとんどないし、仮にのぼることになったとしても、降りられなさそうだったらそもそもトライしません。降りられると確信したときだけのぼるんだと思います。

これはけっこう他のことにも言えるんじゃないかと思います。大人になると後先を考えずに行動することはあんまりありません。結果がはっきりしていることのみについてだけトライするというか。そもそも結果がはっきりしているのなら、トライなのかどうかも疑わしいわけですが。

子どものころはそのあたりが無鉄砲というか無定見だったんでしょうね。逆にいうと「たまには無鉄砲なこともやってみろよ」と昔の自分が夢を通じて今の自分にささやきかけているのかもしれません。

年賀状

平成最後ということで今年限りで年賀状をやめる人も多いらしいですね。ネットで見ただけで、実際にそういう人はいるんだろうか、と思ってたら、正月に年賀状をいただいた中に1人いらっしゃいました。

お世話になった勤め先の先輩で、「古希を迎えたのを機に今後はご遠慮したい」とありました。

退職後、10年以上会ってません。その後、病気をされたと聞いていたので、ご本人としては終活的な意味合いで年賀状をやめられるのかもしれないと想像してます。

実はわたしも年賀状をやめたいと思ってはいるんですが、なかなか踏ん切りがつきません。